008.straw / 二人の幼馴染
日生は体育科に来ていた。部活開始の時刻が迫った昼過ぎ、少数の生徒が早々と部活着に着替え教室から出ていた。日生は体育系クラブで最も厳しい部のひとつ、野球部に所属しているが、彼は特別進学科であるためこの時間から部活をすることはない。特進の授業を受けることが優先されているからだ。
けれど彼は、授業が始まる時間になっても体育科から出ようとしない。慌てる素振りもなくうろうろしている。慣れない廊下を歩いて、日生は辿り着いた教室の札を確認する。そこには三年四組とあった。
「そんなにゆっくりしてていいのかよ。そろそろ部活始まるんだろ」
教室は静かで、慌しい時間が嘘のようだった。音無しの空間を通った日生の声はやけに響き、その教室で一人、机に伏していた榎はゆっくりと顔を上げた。彼女のトレードマークであるお団子の髪が、少しだけ揺れた。
「日生か。いきなり出てくるからびっくりしたじゃん」
そう言うわりにノーリアクションの榎。強いて挙げる彼女の反応と言えば、前髪を適当に直してジャージに手をかけるスローな動きだった。それを見て日生は片眉を上げた。
「部長が遅れちゃまずいだろ」
「私は明日から名古屋で試合だから、学割とか保険とかの手続きでちょっと遅れるって伝えてあるからいいの。ていうか、何で日生がここにいんの? 日生こそゆっくりしてちゃまずいでしょ。特進の授業、もう始まってるじゃん」
体育科が部活に厳しいのと同様、特進科も授業を一回でもサボれば成績に影響してくる。それなのに何故ここにいるのか。榎の疑問は日生の想定内だった。けれど彼女は、問うておきながら特別答えを探ろうとせず、日生を無視してジャージを広げた。
だから日生は、ここにいる理由を答えなくて済んだ。
「着替えるからあって向いてて」
「……ここでかよ」
既に上着のボタンを外している榎。日生は教室のドア二つが隙間なく閉められていることを確認し、榎に背を向けた。
これで教室は完全に日生と榎の二人だけとなった。窓の外から聞こえるのは浮かれている新入生の声と、部活に燃える部員の勇ましい声と、教員の怒声。この別世界のような静かな教室、二人きりの空間で今、榎は服を脱いでいる。
榎の、制服のリボンを解く音がする。シャツを豪快に脱ぐ音がする。スカートのファスナーを下ろす音がする。外の雑音のほうが何倍も大きいのに、日生には、僅かなこの音のほうがやけに響いているような気がした。
榎は今、何を思ってここで着替えているのか。傍にいるのがまるで女のようにあっさりと着替え始めた彼女を思うと、日生は少し気になった。十七年幼馴染をしているとそのような感覚になるのだろうか。自分が女でも男の幼馴染の前であっさり着替えられるものなのだろうか。普段考えない分野なため、日生の脳は朦朧とした。
「もうこっち見ていいよ」
結局答えは薄く曇る。日生は振り返り、制服を乱暴に畳む榎を見た。学割や保険の手続きをしに向かう手際すべてが、いちいち荒々しい。
榎がこうなってしまっている理由は分かっていた。
「招待状のことなんか、気にするなよ」
本来なら、本家の血を受け継ぐ四姉妹全員に招待状が送られてくる。けれど榎宛と柊宛がなかった。それはつまり、榎と柊は本家に認められていないということだった。
椿は全国模試総合成績一位に何度も輝き、千歳グループの人間として恥じない、学力という分野で功績をあげた。
楸は世界フィギュアスケート選手権に入賞し、千歳グループのイメージを上げ、会社的にも利益に繋げた。
榎の功績は、高校総体硬式テニス二年連続優勝。誰にでも成し遂げられるような成績ではないし、テニス界では期待の高校生プレイヤーとして重宝されている。
けれど、椿のように千歳グループ好みのメジャー分野で功績を残したわけではない。楸のように世界で輝き、日本中に顔と名前を覚えてもらっているスタープレイヤーなわけでもない。大規模予備校全国模試の成績表上位に名前が載ったわけでも、各スポーツ新聞一面を飾ったわけでもない。
高校総体硬式テニス二年連続優勝だけでは、千歳グループには認めてもらえない。朝刊に小さく名前が載るだけでは、テニス専門雑誌の一ページを飾るだけでは認めてもらえないのだ。
「……もしかして、私のこと励ましにわざわざ来たの?」
榎の大きな目に日生が映る。過酷な運命を生き抜いてきた今までが滲み出ている、そんな、どこか冷めた目だった。
昔はもっとキラキラ輝いていたのに。キラキラした目で野球観戦、テニス観戦をしていたのに。それほど昔のことでもない過去が、日生にとってひどく懐かしく感じた。
何も答えない日生を放って、榎は窓を開けグラウンドを眺めた。体育科棟の周りはスポーツ設備が充実していて、この教室から部活に燃える体育科生徒たちを一望出来た。なかでも、新入生を怒鳴る上級生が目立った。
「懐かしー、私も入学したばかりの頃よく先輩に叱られたなあ。日生もだよね、特進てだけで目ぇつけられてさ」
「……ああ」
「日生が夢高野球部でちゃんとやっていけるのか、私と椿、凄く心配で毎日野球部寄ってたもんね」
「ああ」
「そんな日生に今、心配されて励まされてんだから……笑えるよ」
榎の冷めた目には、体育科生徒もグラウンドも空も日生も映っていなかった。無様な自分を思い描いているのか、榎は嘲笑気味に口元を歪めた。
「何もおかしくねーよ。腐れ縁の幼馴染心配すんのは普通だろ」
何も面白いことなどない。苛立ちを隠さない日生は、棘を含んだ声で言った。それを聞いた榎は数秒考えた後、その棘をあっさり取り除くように返した。
「……彼氏でも作ろうかな」
「…………はああ?」
「そうしたら私、日生じゃなくて彼氏に慰めてもらえるじゃん」
「……お前は、俺に励まされるのがそんなに嫌か」
「まあそれもちょっとあるけど。ご立派になった日生が励ますのは、いい加減椿だけにしといたほうがいいんじゃないかと思ってさ」
私が情けないから放っておけない、そんなんじゃ日生にも椿にも悪いし、私も二人にいつまでも甘えていいわけじゃないし、とぶつぶつ言う榎は、日生の目にひどく不自然に映った。
「おい。何で椿だけにしといたほうがいい、ってなるんだ」
「え? 椿と付き合ってるんじゃないの?」
「付き合ってねーよ! お前までそういうこと言うのか」
椿と日生は同じ特進科、同じクラスで、幼馴染の間柄、周りによく誤解されている。容姿端麗、頭脳明晰、大人の雰囲気をもつ二人は誰が見てもお似合いだった。付き合ってない事実を伝えると、みんな口を揃えて、信じられない、と驚く。日生はそれが不思議でならなかった。
幼馴染というだけで、男と女というだけで恋愛関係だと周囲は騒ぎ立てる。椿とは噂になるのに榎とは噂にならない。日生にとって二人は同等に大切な人だ。それを周りが、椿だけ特別に仕立て上げようとしている。榎ですらその一人だった。
自分の中で椿だけ特別であるなら、ここへは来ていない。そう思いながら日生は榎を睨んだ。
三人から自立しようとする榎。仲良し幼馴染三人組の関係に、自ら終止符を打とうとする榎。
榎はいつもそうだった。日生と椿を置いて、いつも一人で先に進もうとしていた。そんな榎に、日生は怒りに似た感情を覚えた。
「ふうん、付き合ってなかったんだ。でも、二人がいつもお互いの近くにいて、それが周りにも自然体に見えてるからよく勘違いされるんだよ。二人は頭もいいし大人っぽいし。そこに馬鹿で子どもっぽいままの私が加わると不自然に見えちゃうほど、二人がお似合いなんだよ。十七になった今も、二人が昔のまま仲良し幼馴染でいて、一緒にいても自然に見られてること、三人組から既に浮いちゃってる私としては、うらやましいけど」
「そうじゃないだろ」
日生は、ここに来た本来の目的を忘れ、自分の感情に身を任せた。
「お似合い? 自然? 俺と椿が本当にそう見られてるなら、それを作り上げたのはどこの誰だ。俺たち二人を置いて、一人で先に進もうとするのも、三人で遊ぶことよりテニスに夢中になったのはどこの誰だよ」
後に日生は後悔する。授業をサボり体育科まで来て、榎を励ますどころか追い打ちをかけるようなことを叩きつけた自分の無力を呪う。
「お前が三人組から浮いてるなら、その原因はお前だ。先に離れたのはお前のほうだ、榎」
日生は榎の笑顔を見ることはなかった。怒りそうであり泣きそうであった榎の顔は、その日一日、日生の頭から離れなかった。普段明るい人間なだけに、彼女の暗い表情はよく映えるようだった。
自分にとって椿と榎は同等に大切な人。そう思っていた自分を日生は罵倒する。怒りに任せて、落ち込んでいる榎をさらに追い詰めた事実が証明している。椿でも榎でもない、大切なのは、幼馴染三人組の存続を願う自分自身だったのだ。
◇
何もかもついていない日とはこういうことだろうか。廊下の窓から入る風は体温を奪うばかりで、濡れた髪も頬も服も乾かしてくれなかった。
化学室で起きた原因不明の水道管破裂。大量に飛び散った水を直に浴びてしまった椿は、着替えるため教室へ向かった。したたる水は廊下に椿の不運の痕跡を残した。
制服はほとんど濡れてしまったが、下着は無事だ。薬品ではなくただの水を大量に浴びただけ。模試が近いなか、授業をストップすることなく自分一人の犠牲で済んだ。不幸中の幸いを絞り出し、溜息をつく椿はあくまでポジティブを装った。
「珍しい、和城くんが授業サボるなんて何かあったのかなあ」
クラスメイトの一人が言っていたのを椿は思い出す。日生が授業をサボるなんて今までにないことで、教師すら怒るのを忘れ戸惑っていた。けれど、椿だけはなんとなく予想していた。
招待状が来なかった榎を、日生はずっと気にかけていた。榎は明日から名古屋で試合があるためしばらく会えない、試合前は必ず学割や保険の手続きをする、部活が終わる時間帯だとその手続きが出来ない、部活前に必ず手続きをするため話せるならその時しかない、そう見計ったのだろう。授業が始まる時間、化学室とは反対の方向へ向かう日生の背中に迷いはなかった。
教室のドアを開け中に入る椿。がらがらと錆びついた音が鳴ったのに、一人席に着いていた彼には聞こえなかったのか。頬杖をつき、窓の外を眺めたままこちらを見ようともしなかった。
「日生」
窓際の自分の席に着いている日生が教室にいた。椿が名前を呼び、日生はようやくこちらを見た。どうしてここにいるの、と椿が訊こうとしたら、どうしたんだその恰好、と逆に訊かれてしまった。びしょ濡れで現れたのだから当然である。
「化学の授業してたら、水道管が破裂しちゃって」
「着替えあんのか?」
「……ない」
日生は席を立ち、教室後ろにある自分のロッカーを開けた。日生はジャージを取り出すと、それを椿に渡した。
日生は周りから、クールだとか、そこがかっこいいだとか言われているが、椿からしたら感情を表に出すのが鈍いだけの男だ。今の日生も表情はないが、かなり気が動転しているようだった。着替えがないなら、椿が教室に寄った、入った行動は無意味で不自然だ。保健室に直行して着替えとタオルを借りるのが自然なのに、それに気づいていない日生は椿の嘘を真に受けるだけだった。
ジャージを受け取った椿は、輪郭をなぞるようにしたたり落ちる水を意識しながらも、目の前の男を見て呆れた。気が抜けてぼんやりしている日生は、着替えようとする椿に背を向けただけだった。
「何で日生がここにいたままなのよ!」
「え?」
「着替えるんだから教室から出ていくのが普通でしょ!」
訳が分からないといった顔の日生に構わず、椿は彼の背中を押して教室から追い出した。ドアを隙間なく閉めた後、そっと触れるように、椿は両手とおでこをドアにつけた。扉一枚の向こうに、日生がいる。遠い体育科ではなく、自分の傍にいる。
ドアから離れ、椿は着替え始めた。隣のクラスも移動教室のせいか、やけに静かだった。水を含んだ重たい制服を床に放り投げ、椿は考えた。
体育科で何があったんだろう。日生と榎はよく喧嘩をするが、日生の今の様子だとそれがあったわけではなさそうだ。いつもの喧嘩をした後だと、彼は今より数段元気でまともだ。今みたいに呆然とはしない。
椿は日生と喧嘩をしたことがない。だから、日生を怒らせたり呆然とさせたりする榎を羨ましく思う時がある。ただ、今は羨ましいという言葉では片づけられない気持ちだった。
千歳の家と和城の家は近所で、会おうと思えばいつでもお互いの家に行ける。小さい頃から家族公認の幼馴染で、今更遠慮することはない。それなのに、日生は千歳の家に行かず、榎に会いにわざわざ体育科へ行く手間を選んだ。招待状を貰った椿と楸のいない所で榎と話したかったのか、それとも、ただ榎と二人きりになりたかったのか。
椿は着替え投げた制服を拾い、自分のロッカーを開けた。中に入っているジャージの上にそれを被せ、苛立ちを叩きつけるようにロッカーを閉めた。
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