010.beige / 逃げ腰スター

 商店街から離れ、日生は川沿いの道路を歩いた。通常の歩行速度よりはるかに遅い分、制服は大量に雨を吸った。雨に混じる夜風が日生の体温を奪っていくが、それは大した問題ではなかった。

「どちらと恋愛するか選べ。それが出来ないなら、お前は幼馴染という関係を死ぬまで貫き、二人が別の男と付き合い結婚していく姿を見届ける覚悟を決めろ。それか、二人じゃない別の女を選べ」

 天明の言うとおり、これはずっと前からあった問題だった。中学の時も、高校三年生になるまでにも、この選択を求められるような出来事が何度かあった。それでも、日生はいまだに答えを出せずにいた。いつまでものろのろしていて、三人組の関係の進展を避けてきた。天明の説教をうけて当然だった。
 不安定に揺れる大地を歩くように、日生は一歩一歩慎重に歩いた。商店街から自分の家までの道に千歳邸がある。そこを通るのも見るのも、今はなんとなく気がひけた。
 遠回りして別の道で帰ろうか。その考えを日生は振り払う。高校三年生になった今、逃げ腰だけが一流になったようだ。
 川沿いからそれることなく、日生は濡れたアスファルトを歩き続けた。すると、千歳邸の前にあるくすんだ白のガードレールに腰掛け、夜色の川を見つめる女が見えた。家々のかすかな灯りで彼女の長いウェーブかかった髪と、そこからのぞく端正な顔が辛うじて見えた。
 楸だ。四月の雨夜にしてはかなりの薄着だった。日生は思わず声をかけた。

「そんなとこで何してんだ。風邪ひくぞ」
「……そっちこそ」

 傘も差さずゆっくり歩いていた日生に、楸は的確な返答をした。日生は何も返さなかった。そんな日生から目をそらし、楸はまた川を見た。額にはりつく前髪も目に入る雨も気にせず、ただ無表情に川を見つめていた。
 日生は感情を表に出すことが鈍いという自覚がある。けれど楸は日生と違い、感情そのものがないように見える。嬉しい、悲しい、そういった気持ちがわいてこないから、笑いもしないし泣きもしないのかと思えた。
 喜悦も悲哀も彼女の中にないのだから、日生を懸念する情もあるわけない。自分の体調を気遣う日生はここにいない、そういった雰囲気をかもし出し、楸は一人の世界に浸るように雨に打たれている。日生の配慮を完全無視している楸は恐ろしいほどの自然体だった。

「風邪ひいたら、パーティーに出られなくなるだろう」

 出たくても出られない奴がいるのに何考えてるんだ。とは言わなかった。ただ、日生の言葉は充分嫌味を含んでいた。内にある意味が伝わったのか、楸はもう一度日生を見た。雨夜の川の冷たさを吸い込んだような瞳をして、楸は訊いてきた。

「私が憎い?」

 急に何を言い出すんだ、馬鹿馬鹿しい、そんなわけないだろう。日生はそう思った。
 憎いとは、気に入らない、腹立たしい、癪にさわる、嫌な相手として何か悪いことがあればよいと思うほど嫌っていることだ。楸は椿や榎にとっての妹であり、自分にとってもそういう存在だ。昔からよく知っている、半分家族みたいな存在だ。そうだ、楸は自分にとって大切な人の一人だ。憎いわけない。
 そう思っているのに、答えられない。口が動かない、声も出ない。憎くないと答えるまで、何故こんなに時間がかかるのか。
 気づいていないふりをしていたが、心のどこかでずっと思っていたのだ。楸がその才能を発揮しなければ、榎は死に物狂いでテニスをすることはなかったはずだ。椿も追いつめられるような状況で勉強することもなかったはずだ。今みたいに、周りからのプレッシャーに押し潰されそうな毎日を送ることはなかったはずだ。
 楸がその才能を発揮しなければ。楸がいなければ。

「楸ちゃん! 日生くん! 二人とも、傘も差さないでどうしたの!?」

 どす黒い感情に侵されそうになった日生。それを救ったのは千歳邸から出てきた柊だった。家事の途中だったのか、エプロンをつけたままだった。
 柊は傘を差して二人に近づいた。雨の中傘も差さず、無言のまま見つめ、立ち尽くしていた、座っていただけの二人に、柊は自分の傘を傾けて中へ入るよう促(うなが)した。すると、傘からはみ出た柊の体が濡れた。それに気づいた楸は柊の手ごと傘の柄をとり押し返した。
 そんな楸の様子をおかしいととらえたのか、柊は心配そうに楸の顔を覗き込んだ。

「楸ちゃんどうしたの? 何かあった? 家のどこにもいないから心配したんだよ」

 そう言いながら、柊は楸に近づきもう一度傘を傾けた。傘の中に納まっている二人は、姉妹と言うより母娘に見えた。
 楸の中でわずかに揺れていた感情を読み取った柊。母のように穏やかで優しい顔をして、楸に微笑んだ。それを見て日生の心臓は飛び跳ねた。
 何が、感情そのものがないだ。何が喜悦も悲哀もないだ。何が、自分にとって大切な人の一人だ。全部自分にそう言い聞かせたいだけだったのだ。
 どこかで、幼馴染三人組を崩すきっかけになった楸を憎んでいた。そんな楸を自分の妹のように思えば家族のように愛せると思った。このどす黒い気持ちを誤魔化せると思った。
 けれど結局出来なかった。楸に憎いかと訊かれ、憎くないと答えることが出来なかった。そんな自分を擁護するように、楸には感情がないと思い込みたかった。憎める対象として仕立て上げたかった。傷つけても大丈夫だろうと思い込み、逃げたかった。綺麗事並べて自分を美しく着飾り、保身に努めたかった。

「もしかして、パーティー欠席する理由無理矢理作ろうとして風邪ひこうとしたの?」
「…………」
「どうしてそんな馬鹿なことを……」
「……ひいは、私のこと憎くないの?」
「憎い? そんなわけないよ。私たち家族だよ。招待状来たとかパーティー行ったからとか、そんなことで嫌いになるわけないよ。楸ちゃんが風邪ひいて苦しそうな姿見るほうが、私はよっぽど辛いよ」

 柊の言葉を聞き、楸はようやくガードレールから腰を上げた。自分を愛してくれている確かな存在を離すまいと、柊を抱き締めた。そんな楸の気持ちに気づいているのかいないのか、柊は母のような顔つきを崩さず、楸を抱き返した。
 ずっと立ち尽くしていた日生が、ここに来てやっと反応を見せた。二人から離れるように、一歩下がった。

「俺、帰るわ……」
「あ、日生くん、雨酷くなってきたからこの傘使っ……」

 柊の親切を振り払うように、日生は走って帰っていった。
 千歳邸と和城家を繋ぐ道を、日生は全力で走った。昔は椿と榎と早く遊びたくて、嬉しい気持ちのなか千歳邸まで走っていた。お互いが恋愛対象になった十七歳、真っ白だった心にどす黒い感情が芽生え灰色の十七歳になった今、日生は千歳を避けるように逆走している。
 憎んでしまう楸から逃げるように。そして、楸を純粋に愛している柊から逃げるように。
 柊もそれなりに楸の才能に傷つけられたはずだ。楸がその才能を発揮しなければ、三人の姉に劣る末っ子、いい所を全部姉たちに持っていかれた可哀想な子、能無しの四女というレッテルを貼られずに済んだはずだ。それなのに、柊は楸に対して一切嫌な感情を持っていない。楸さえいなければという思いがないみたいに、楸を大事に抱き締めていた。
 いくら家族でもあそこまで純粋に愛せるものなのか。自分を追いつめた張本人を、あそこまで嘘偽りなく愛せるものなのか。日生がそう疑問を持っても、事実、柊の純粋な愛は本物だった。
 日生は息を切らしながらドアを開け、家の中に入った。玄関にある姿見に、一心に逃げた後の自分が映っていた。
 いつまで経っても答えが出せない自分を、急かすことなく待ち続けている椿に甘え、三人組から自立しようとする榎を子どもみたいに引き止め、楸を傷つけるだけ傷つけて逃げ帰った自分。そして、柊の純真が恐ろしくてたまらない、情けない自分。
 なんて醜い。なんて浅ましい。びしょ濡れの自分を見て日生は思った。
 けれど、こんなに醜くて浅ましい自分を、椿と榎は愛しているのだと天明は言う。
 日生の目尻に水が溜まる。吐く息に混じる嗚咽は、鏡に水滴の集まりをつけた後、涙が流れるみたいに垂れた。


     ◇


 ランニング、ランニング、雑用、雑用、ランニング。
 真面目に走っていた新入部員たちは息をするのがやっとで、頭に足りていない酸素を必死に補給していた。連日の長距離ランニングの疲労が溜まり、体の節々の限界を感じていた。そんななか、教員たちは新入部員を集合させた。雨が凌げる屋根ありの倉庫前に教員数人とコーチたち、そして、見覚えがあるようなないような男が立っていた。教員やコーチを背後にして立つその男は、記憶の隅にどこかで会ったことがある曖昧な過去が残っている程度で、息の荒い部員たちはそれ以上思い出せなかった。

「名前を呼ばれた者はここに残れ。呼ばれなかった者は帰っていい」

 記憶を辿っているなか、男は紙を見ながら名前を次々と呼んでいった。以上だ、と男が口を閉じた時、残った新入部員は三十人ほどだった。決まってランニングで練習着を汚している連中ばかりだった。栄人と野々松もその中に入っていた。

「お前らには次の日曜、試合をしてもらう。と言っても全員は無理だから九人だ。この中から九人、俺が選ぶ」

 選考基準は明日のテストの結果だと男は続けた。全員全守備のポジション練習をし、バッティングも見ると言う。それを見て男がメンバーを決めると言う。
 部員たちは動揺を隠しきれなかった。今までランニングばかりで終わりが見えなかった矢先、こうもあっさり試合が出来るなんて都合よすぎではないか? と疑問もあったが、それ以上に相当の嬉しさが込みあがり、冷静な思考は働かなかった。
 何か質問は、と男が言った。興奮している部員たちの中で一人、静かに手を上げる者がいた。

「相手はどこですか?」
「ああ、言うの忘れてた。うちのレギュラーだよ」

 しれっと言ってのける男を前に、部員たちは呆然とした。

「なあに、うちでは毎年のことだ。一年生選抜チームとレギュラーチームで試合をするのはな」

 何故、試合をするのか。先月まで中学生で、ここ最近まともに野球をしていない一年生が、何故。高校野球のトップクラスチームと言って過言ではない、夢高レギュラーチームとの試合結果は明白だろう。やる意味、目的は何か。
 平常心を装っているが、ほとんどの部員は男の真意を必死に探っていた。

「他に質問は?」
「はい!」

 そんななか、栄人は一人、手をあげた。

「その試合に勝てたらレギュラーになれるんですか!?」

 真意を探る鋭さの欠片もない、的外れもいいところの酷い質問だった。栄人の背後にいた部員二人は苛立ちをあらわにし、栄人の尻を蹴った。痛っ! と一人で騒ぐ栄人を、教員たちは注意しなかった。レギュラーに勝てるわけないだろうと、小馬鹿にするように口元を緩めるだけだった。反対に、男は大きく笑った。

「はっはっは!! そうだな、勝ったらその可能性は充分あるな」
「よ、よし……!」

 尻をさすりながら嬉しがる栄人を、部員たちは冷ややかな目で見た。

「他にもまだ質問はあるか?」
「はい」
「またお前か。今度は何だ」
「えーと、おじさんは、誰ですか?」
「俺?」
「いや、知らない人からレギュラーになれるかもって言われても、本当かなあと思って」

 それは、ここにいる新入部員全員が思っていることだった。短い顎鬚は清潔感がなく、ステテコに草履と、グラウンドに似合わない格好で教員の前に堂々と立つ男そのものが疑問の塊だった。
 けれどそれはあっさり解決された。そして栄人の名前は、監督を知らないおじさん呼ばわりした部員として、後の後輩にまで語り継がれることになった。



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