002.桜色 / 中学三年生の出会い

 夢路高校硬式野球部は全国でも有名な強豪校だ。夢高という愛称で親しまれ、甲子園出場回数は全国でも上位、過去の栄光と比べても強さは衰えず、現在も勝率は悪くない。歴史が長く、ファンは年々増えている。その数がここ数年で急増している理由は二つある。
 一つは、この三年、激戦区の神奈川県代表を勝ち取り夏の甲子園に出場していること。そしてこの三年間、夏の甲子園準決勝進出を果たしながらも敗戦していることだった。
 甲子園にひそむ魔物は準決勝戦で胡坐をかいている、とマスコミが取り上げたのも、夢高が過去に一度も決勝戦進出を果たせていないからだ。その事実は皮肉にも夢高の知名度に繋がった。野球に興味のなかった人々の耳にもその名前が馴染むようになった。次第に夢高の執念を応援する人が増え、毎年挑むその壁を一緒に越えようと、情熱を注ぐ人の数は徐々に増えていった。
 二つ目は、和城日生(やわらぎにちお)の存在だった。前年を思い勢い込んだ昨年の夏、彼は一年生ながら四番打者を務め数々の記録を残した。甲子園では連続試合本塁打タイ、県予選では一試合最多本塁打更新、連続試合本塁打更新と、華々しいデビューだった。今年は敬遠が目立ち記録とは無縁の試合ぶりだったが、存在感はどの選手よりも圧倒的だった。
 それだけでマスコミの食いつきは良かったが、彼の魅力はそれだけではなかった。整った容姿、偏差値七十四の特別進学科在籍など話題を集め、ファンの女性割合を急激に上げた。もちろん同性から見ても、彼の誠実な姿勢から悪い印象を受けることはなかった。
 人気と才能を両手に持っている彼はアイドル化された高校球児というより、スーパースターの卵に見えた。


 光利栄人(ひかりえいと)は野球部のグラウンドを目指した。夢高の敷地はとてつもなく広いが、道案内の立て看板や地図版が充実していて、方向音痴でない限り迷うことはない。グラウンドの引力に引っ張られるように、栄人は走っていった。
 近づくにつれて野球部員の声が聞こえてくる。日は暮れかけていたが、栄人は活気の衰えないグラウンドを目の前にした。今練習が始まったような動き、土がこびりついている練習着、響き渡る部員たちの掛け声が自分の肌に直接触れてくるようだった。
 今までの自分の練習場はお遊び場だったのかもしれない。そう感じるほど、夢高野球部の練習は緊張感と本気があった。練習に没頭し、疲れ果てても諦めない姿勢、誰よりも声を出そうと部員同士で張り合い、コーチたちの罵声に物怖じしない強気と、それに応えようと一心になって野球をする彼ら。
 グラウンドに充満している情熱は、栄人の心を奮わせた。
 受験生を対象に公開した夢路高校の見学会。見学者(夢高志望受験者)は夢高の講義、説明を聞くもよし、校舎や部活を見回ってもよしのイベントだ。県境に近い田舎から出て来た栄人は、県内最強の野球部を見て入学の意志を固めた。ただ、見学だけの今の状況に満足は出来なかった。
 自分もあそこで野球がしたい。
 栄人はブルペンにいる日生を見る。日生に投球しているのは、予想通り藤瀬忠昭(ふじせただあき)だった。一年生ながら夢高のエースを任された天才ピッチャーだ。彼は今年、日生とバッテリーを組み夏の甲子園を経験した。その財産は今、彼の骨肉となっているだろう。
 栄人の左手に力が入る。キャッチャー和城日生を前に、マウンドに立つのは自分でありたい、そう思った。藤瀬の鋭い変化球を直に見ても、栄人の思いは変わらなかった。

「……ん?」

 ふと、左拳に違和感があった。手の平に爪が食い込んでいる、おかしい。栄人はすっからかんの左手を見て、軟球を無くしたことにようやく気づいた。

「ボ、ボールがない!!」

 いつ落としたんだ。浮かれていて全然気づかなかった。あれは自分にとって大切な、いや、必要な、今はまだ手放してはいけないボールなのに。
 焦ってあたりを見渡す栄人。ポケットや鞄の中は探さなかった。それは彼が常に軟球を手に持っていることを示していた。何に、誰に。軟球を拾った少女に。

「あの……」

 野球部員の勇ましい掛け声に混じり、柔らかい声が背後から聞こえた。栄人が振り返ると、そこには背中を押してくれた少女が立っていた。
 改めて向き合うと、おどおどした様子が見てとれる頼りない女の子だった。遠慮がちに「あの」と言う彼女が、見ず知らずの自分の背中を一思いに押したのかと思うと、栄人は不思議な気持ちになった。

「これ、落としましたよ」
「あ! ありがとう!」

 少女の手には、黒ずんだ軟球があった。土や傷、手垢で汚れているそれは間違いなく栄人のものだった。
 少女から軟球を受け取り、左手がようやく落ち着いた。手に馴染むこの感触を久しぶりに得たと同時に、先程の満足しなかった気持ちが、栄人の中で再び湧き上がってきた。
 ボール越しに和城日生と藤瀬忠昭の姿を見たような気がした。その瞬間気持ちがぐんと高まり、気づけば栄人はその思いを吐き出していた。

「俺、和城日生と絶対バッテリー組む」

 自分の体温すべてが、心臓に集中しているみたいだ。
 激しい心拍を自覚する栄人は、少女を見る余裕がなかった。顔は上げられず、軟球を見るふりをした。そこには和城日生と藤瀬忠昭の姿はもうなかった。かわりに、自分を馬鹿にして笑うたくさんの人を見た気がした。
 妙な沈黙が二人の間にあるなか、それを先に破ったのは少女のほうだった。

「うん」

 それだけ答える少女は、栄人の胸に違和感の塊を残した。
 何故笑わないんだろう。たかが中学生が何を言っているんだ。日本一の高校球児とバッテリーを組むことに、どれほどの才能と努力が必要なのか分かっているのか。分かっていないからそんなことが言えるんだ。
 当然の反応を見せない少女は新鮮だった。我慢出来ずに、栄人は訊いた。

「どうして笑わないの? 俺、凄く下手な奴かもしれないし、大口叩くただの勘違い野郎かもしれないのに」
「だって、その目標が本気だから、相当の覚悟と恐怖があったから、夢高に入ることも家に帰ることも出来ずに、ずっと正門前に立ってたんでしょう。その葛藤とずっと戦っていたの、私見てたから……笑わないよ」

 胸にあった違和感が、柔らかくなって消えていった。軽くなった胸は、また別の感情の重みに触れるようだった。
 嬉しい。それを抑えられずに、栄人は表情を緩ませた。彼女は頼りない女の子などではなかった。自分の覚悟と恐怖を理解してくれる、強い味方だったのだ。

「俺、頑張るよ」
「うん」

 少女はもう一度頷き、それじゃ、と言って帰っていった。一歩二歩と遠ざかっていく彼女の背中を見て、自分の強い味方をこのまま手放してしまうのか、と栄人は思った。彼女との間に何か繋がりが欲しい、今日偶然会っただけの人ではなく、何か、何か。栄人が頭を悩ませていると、少女はいきなり振り向いた。

「あの……さっき、背中強く押してごめんなさい。怪我しなかった?」

 それを聞き、数秒考えた後、栄人は軟球を思い切り投げる、ふりをした。肩、腕、腰、足、すべて正常だと確認し、全然大丈夫、と答えた。少女はほっと胸をなでおろして、初めて笑顔を見せた。
 栄人は、今度こそ本当に軟球を投げた。柔らかな弧を描いた後、軟球は少女の手に落ちていった。彼女の白い手の中で黒光りするそれは、初めて神聖なものに見えた。

「俺、夢高の野球部に入って、絶対凄いピッチャーになって和城日生とバッテリー組むから、それまでそのボール持っててくれないかな」
「あの、でも……」
「今日の見学会に来たってことは、君も夢高に進学するんでしょ?」
「……うん」
「なら、俺のこと一応気にかけててよ。今日会ったばかりで図々しいのは分かってるんだけど、俺の目標を笑わずに聞いてくれた君に、ボール預かっててほしいんだ。俺の名前は……いや、まだ知らなくていいや。絶対有名になってみせるから、その時俺の名前知ってくれればいいや。君の名前は?」

 強引な栄人に戸惑いながらも、少女は、柊、と小さな声で答えた。

「次会う時は、お互い夢高の制服着てたらいいな」

 栄人がそう言うと、柊は俯きがちに柔らかく笑った。そして彼女は、今度は振り返らず、預かった軟球を持って帰っていった。
 破片の集まりで出来ていた自分の心が、もとの心に戻っていくようだった。

(俺は、また頑張れる)



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