003.baby pink / 鈴浦中学校の騒動

 栄人は屋上で仰向けになって寝ていた。背中に当たるコンクリートがやけに冷たかったが、教室にいるよりずっとましだった。窓枠からではなく、全面に広がる青い空が、栄人の心を癒した。
 綺麗な空色が栄人の瞳を染める。聞き慣れた鳥の声が栄人の耳をくすぐる。古い校舎の匂いが栄人の鼻に触れる。
 ここには自分以外誰もいない。栄人にとってここは、学校で唯一居心地のいい場所だった。
 静かに目を閉じる。瞼裏に映るのは見学会で見た夢高野球部だった。白球を追いかける部員たち、鳴り止まない彼らの掛け声、そして、和城日生と藤瀬忠昭のバッテリー。

「栄人……」

 遠慮がちな声がした。そこは栄人の領域だと認識しているのだろうか、屋上のドアから居心地の悪そうな顔をする飯尾(いいお)がいた。栄人の同級生であり、かつての仲間だった男だ。

「何か用?」
「その……早く、みんなに謝ったほうがいいよ…………今ならまだ許してくれるだろうし、このまま卒業なんて……絶対良くないと思うから」

 そっけない態度で先制攻撃したつもりだったが、飯尾は言い切った。臆病で弱虫だった飯尾がだ。栄人は、この男がいつの間にそこまで成長したのだろうかと少し考えたが、すぐに止めた。彼の言葉に納得がいかなかったからだ。

「俺がみんなに謝る? 今ならまだ許してくれる? 逆だろ飯尾。みんなが俺に謝ってきても、もう遅い」

 今度はそっけないで済むものではなく、低くて太い、すごみを利かせた声で栄人は言った。
 そうだ、何もかももう遅い。あの夏から。投げて投げて投げまくった、あの途方もない試合から。
 忌々しい記憶が栄人を襲う。頭を思い切り振って拭おうとしたがそれも遅く、脳に貼りついた。
 栄人は気分が悪くなって立ち上がった。飯尾のほうを見ず、この話しはこれでお終いだと言わんばかりにドアを通り越した時、飯尾が栄人、と呼んだ。栄人は聞こえないふりをして階段を降りた。
 するとそこに、かつての仲間たちが集まっていた。同じ野球部だった彼らもまた、飯尾と同じように気まずそうな顔をして栄人を見ていた。けれど一人だけ堂々と栄人の前に立つ男がいた。大久保(おおくぼ)だ。情けない顔の野球部員を背負い、栄人がいなくなった野球部を仕切っているようだった。
 栄人は飯尾を横目使いした。気の弱い飯尾は、今回大久保にとっての駒だったのだろう。

「栄人、いつまで意地張ってるつもりだよ。俺たちはもう気にしてないからさ、また前みたいに仲良くしようぜ。高校上がっても一緒に野球しようや」

 そうだよ栄人。俺たちも悪かったからさ。謝ったんだし。そろそろ終わりにしようぜ。
 大久保の背後から弱々しい声がする。機嫌の悪い自分はそんなに怖いのだろうかとふと思った。いや、彼らは本当の栄人を怖がっているのだ。
 気さくで優しく、素直で友達思い、リーダーシップもあり常にみんなの中心にいた栄人。そんな栄人の激変した姿を彼らは怖れている。
 仲を修復しようとする彼らの行動を、栄人は理解出来なかった。本当の自分を受け入れてくれない友達など鬱陶しいだけだということが何故分からない。それなら一人でいるほうがずっと楽だ。自分のしたいようにする。

「俺は夢高へ行くよ。野球部に入って、和城日生とバッテリー組む」

 自分のやりたいこと。それを抑制しようとする友達は栄人にとって邪魔なだけだった。

「和城日生と……」
「バッテリー……?」

 クスクス、ニヤニヤ。嫌な音が栄人の耳に入る。

「おいおい、和城日生はお前と正反対の記録保持者だぜ。そんな大物とバッテリー組むなんて大それたこと、よく口に出して言えるよ。お前の悪い癖だ。自信過剰なところは高校上がるまでに直したほうがいい」

 大久保がみんなの考えを代弁しているようだった。話しにならないと栄人は思い、大久保を通り越して集団を真っ二つするように歩いた。
 栄人の後ろにはかつての野球部の仲間たちがいる。それを背に歩いていく。
 これは逃げているんじゃない、前に進んでいるのだと自分に言い聞かせながら、栄人は廊下を歩いた。


 鈴浦(すずうら)中学の中心はいつも栄人だった。栄人の周りは常に人が溢れており、みんな笑顔だった。飯尾のような、クラスに上手く溶け込めなかった人間も彼の手にかかれば簡単にその輪に入れた。みんなが栄人、栄人と、呼んでいた。
 すべてが変わってしまったのは夏だった。鈴浦中軟式野球部は県大会に出場し、優勝した。強豪私立を倒した田舎の公立が優勝したことで地元でも話題になったが、その中心もやはり栄人だった。剛速球を武器に強豪私立打線を圧倒し、天才ピッチャーと称される栄人は常に日の光があてられているようだった。それを見て嫉妬しない他の部員は、おそらく一人もいなかった。それでも野球部が健全を保たれたのは栄人の人柄があったからだ。
 県大会優勝。天才ピッチャー栄人のお陰だ。田舎の公立中学が、よくやったもんだ。部員たちは今までの努力を思い出し感慨にふけった。それまでの努力が壮絶だったぶん、県大会優勝という結果は部員たちにとってゴールのように思えた。
 けれど栄人は違った。県大会優勝はスタートでしかなかったのだ。
 栄人と部員の士気の高さはその時点で随分と違っていた。

「もうすぐ全中だ。しっかり練習やろう」

 キャプテンの栄人が仕切るが、部員たちの士気は県大会時より高まらなかった。きっと栄人がやってくれるという思いがあった。自分たちがあそこまで努力しなくても、きっと天才の栄人が、と。
 部員たちのこの甘えが、あの結果へと繋がった。
 神奈川は今回開催地として大会が行われた。鈴浦中は開催地枠として全国大会に出場した。
 初日の一回戦。鈴浦中は二十対〇の大敗だった。それは全中の過去最多得点を七点も上回る記録的なものとなった。
 天才と称されていた栄人が打たれまくった。それを、身に入らない練習を続けてきた部員たちがカバー出来るはずもなかった。
 鈴浦中の夏が終わった時、天才と称されていた栄人は失点王に落ちた。

「栄人があんなに打たれるなんて、想像もしてなかったよ」
「気にすんな、栄人」
「俺たちもカバー出来なかったのは悪かったし」
「そう落ち込むなよ」

 部員たちのかける言葉が、今までの栄人を殺し、別人を作り上げた。
 誰も気づいていなかった。誰も知らなかったのだ。自分たちの物差しでは到底計りきれない、栄人の、野球に対する高いプライドを。

「俺はもう、お前たちと野球したくない」

 これがきっかけで野球部はほぼ崩壊した。自分が打たれまくったのに、俺たちに責任をなすりつけていないか。勝利した分はすべて栄人の手柄とされ、敗北した分は力のない自分たちを原因にするのか。栄人に対する部員たちの小さかった負の感情は、大きくなっていた。
 それから野球部内のすれ違いは学校全体を巻き込み、鈴浦中の中心はなくなった。大久保あたりがそれを気取っているが、本当の中心は今はどこにもない。
 別人と化した栄人はひどく近寄りがたかった。あの大敗した時の試合球を常に持ち歩いていれば尚更だった。
 たった一人、マネージャーをしていた真乃(まの)だけは、栄人につきまとった。

「栄人」

 真乃が呼ぶ。栄人はかろうじて、不機嫌極まりない顔で振り返った。

「栄人、鈴浦高に進学しないの? みんな、高校上がればもっと真剣に野球するって言ってたわ。私もまたマネージャーするし、また一緒に頑張りましょうよ。怒るようなことばっかりだったわけじゃない、楽しいことも一緒にいっぱい経験した、仲間じゃない」

 真乃の言うとおり、栄人にとって仲間たちとの思い出は嫌なものばかりではない。けれど、一緒に野球をするほどの信用は、たった今完全に砕け散った。

「仲間なら、何でさっき俺を笑ったんだ。何で俺を応援しない?」
「栄人、だって、和城日生となんて……」

 戸惑う真乃を、栄人は冷めた目で見た。
 それが当然の反応だ。けれど、柊は笑わなかった。和城日生とバッテリーを組むと言っても、真剣に話しを聞いてくれた。名前も知らない中学生の大層な物言いを真剣に受け止めてくれた。失点王のレッテルが貼られていると知らないからだろうが、柊なら、知っていても同じ反応をしてくれただろうと栄人は思った。

「もう決めたんだ。俺は夢高に行く。邪魔しないでくれ」

 この場所に未練など一切ないように、栄人は真乃から離れていった。

「だって、栄人が夢高行ったら、もう会えなくなっちゃうじゃない!」

 突き進んでいた足を止め、栄人はもう一度真乃を見た。今まで男友達のように接していた真乃が急に女の顔をしだして、栄人は驚いた。

「私、栄人のことが好き」

 告白されたことは何度もあったが、その最中に、目の前の女の子ではなく別の女の子の顔が浮かんだのは、今回が初めてだった。



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