005.light lemon / 庶民派令嬢の煩い

 千歳椿、全国模試総合成績一位獲得の天才。容姿、美人。
 千歳榎(ちとせえのき)、高校総体硬式テニス二年連続優勝の天才。容姿、美人。
 千歳楸(ちとせひさぎ)、世界フィギュアスケート選手権四位入賞の天才。容姿、美人。

「それでは新入生代表、家政科一年二組、千歳柊さん。よろしくお願いします」
「は、はい……」

 千歳柊、特に無し。容姿、ごく普通。
 ステージに上がるまでの長い道のり、あれが千歳柊? という声が何度も聞こえた。柊は泣きそうになりながら、本来新入生代表を務めるはずだった生徒を恨んだ。
 数十分前、柊は椿に呼び出されて、彼女特製の即席新入生代表文を渡された。何故私に、という疑問は当然生まれた。新入生代表とは、入試で一番成績の良かった人がなるものではないのか。三人の姉のように、一番になったことなど今までなかった自分が、何故。そもそも、こういうことは本人に事前連絡があるものではないのか。

「新入生代表を頼んでいた子がどこか行っちゃったのよ。だから、入試成績二位の柊に自然と役が回ってきたの」

 椿は嬉しそうに笑っていたが、柊にとっては最悪のサプライズだった。

「ほ、ほんじちゅ……本日は、私たちのたみ、ために……」

 笑い声が背中に刺さる。か、帰りたい。
 極度の緊張のなか、柊は崩壊しそうな涙腺をなんとかこらえ、調子の悪い舌で文を読み終えるとステージから下りた。自分の席に早く戻ろうと足早になった時、誰かが自分の名前を大声で呼んだ。
 呼ばれたほうを見ても、誰が自分を呼んだのか分からなかった。ざわついている中心が体育科だったことから、もしかして、と柊は思った。
 席につき、柊は持ってきたクラス分けプリントをめくった。

「俺の目標を笑わずに聞いてくれた君に、ボール預かっててほしいんだ。俺の名前は……いや、まだ知らなくていいや。絶対有名になってみせるから、その時俺の名前知ってくれればいいや」

 そう言う彼の胸元には、しっかりと「光利栄人」の名札がついていた。少しおっちょこちょいな彼が、自分を見て思わず声を上げて驚いたのかもしれない。柊は体育科一年五組のページを見ながらそう思った。


 三女の楸が十四歳の時、全日本フィギュアスケート選手権で優勝した。才能溢れる選手が千歳グループの美人令嬢、メディアが取り上げないわけなかった。
 メディアは楸の身辺を調べ、双子の姉二人、妹一人、それぞれ椿、榎、柊という姉妹の存在を明かした。メディアが千歳グループに媚を売った結果、美人四姉妹という噂が独り歩きした。
 しかし現実は、千歳柊、特に無し、容姿普通、だ。十人が十人、可愛くもなければブスでもないと答える程度の容姿、童顔で小柄なため、必ず実年齢より若く見られる、千歳柊という名前でなければ、新しいクラスで一番最後に名前を覚えられるような、とにかく普通で印象の薄い女の子が柊という人間だ。
 そんな柊は、三人の姉と比べられて生きてきた。平凡な自分が夢高に進学することで、在籍している姉たちと益々比較されることは目に見えていた。けれど、どの高校に入学しても姉との比較は避けられない。柊が、千歳家理事の夢路高校に入学することはごく自然な流れでもあった。いずれにしても、柊には最初から、夢高に進学しないという選択肢はなかったのだ。
 選択肢のない進路。本当にこれでいいのかと、柊は自分に問いかけた。姉たちは大好きだし、一緒の学校に通いたいという思いはもちろんある、小さい頃から夢高の生徒を見て育ってきたし、他の高校とは盛り上がりが違うイベントも多数あり、夢高の魅力は知っている。けれど、自分が夢高に入学して、明るい高校生活を送るなんて想像が出来ないのも本音だった。
 だから、夢高の見学会で行ったり来たりを不毛に繰り返していた。夢高に入ることも家に帰ることも出来ずうろうろしていた。
 その時目に入ったのが彼だった。正門前まで引き返す度、ずっと立っている彼の背中を見た。彼の背中は、夢高に入りたいけど入りたくない、そんな自分を映す鏡に見えた。その背中を思い切り押した自分の行動に、柊は驚いた。
 彼が地面に突っ伏してから正気に戻った。見ず知らずの人になんてことをしたんだと、手遅れながら慌てた。怒鳴られても殴られても仕方ないと覚悟した。けれど彼は礼を言ってきた。
 彼は自分と同じ、夢高に憧れと不安の葛藤をもった人なのだと確信した。そして、自身と重ねた彼を押したということは、自分は本当は夢高に行きたいのだと気づいた。

「今日の見学会に来たってことは、君も夢高に進学するんでしょ?」
「……うん」

 夢高に進学するとはっきり答えたのは、あれが初めてだった。
 それから、受験勉強に身が入るようになった。その結果が、入試成績二位で新入生代表、平々凡々の私が千歳柊ですと早くも公表するはめになってしまった。いずれこうなるのだと分かってはいたが、実際に落胆する人の溜息、目、表情を見ると、それらすべては柊にとって公開処刑のナイフでしかなかった。


 いや、公開処刑のナイフと思うのは間違っている。自分はとっくに、傷つく資格を手放したのだから。豚汁の味見をしながら柊は思った。
 入学式を終え、今晩は柊の入学祝いが千歳家で開催される。千歳家で、といっても大財閥特有の大豪邸ではない。開催、といっても大財閥特有の盛大パーティーでもない。夢路町住宅地の家々より、少し大きめの家が千歳姉妹の家であり、一流シェフではなく柊の料理が並ぶ、千歳家ならではの、一般家庭と変わらないお祝いだ。
 豚汁の、濃すぎず薄すぎずの味を確認し、柊は小皿を流しに置いた。あとは、サヨリの塩焼き、筍ご飯、チキン南蛮を完成させるだけだ。自分の入学祝いといっても、結局日生や姉たちの好物ばかり並ぶレシピだ。
 柊は小さく笑いながら、風呂場で演歌を歌っている榎、うるさい! とそれに怒鳴る椿、今日撮った入学式のビデオを何度も見返している楸を思った。
 彼女たちは努力して、千歳家令嬢に相応しい素晴らしい女性となったのだ。柊も、姉たちに劣らないよう頑張った時期もあったが、その結果、自分はどう頑張っても姉たちのような成功者にはなれないと悟るだけだった。
 千歳家の理想令嬢に近づく努力をやめた、そのかわりに、自分は傷つく資格を手放した。今となっては、家事をして姉たちをサポートする役に甘えている。台所や洗濯場、手入れする庭を自分の居場所にして落ち着いている。

「何、あの男」
「ひさちゃん、ビデオカメラに声入るよ。でも、ひいちゃんの名前呼んだあの子誰だろうね。体育科みたいだけど」
「あいつは光利栄人だ」

 楸がビデオを何度も見返しているため、料理中、柊は彼の名前を何度も聞いた。
 あいつは光利栄人だ。日生の声で何度も聞いた。入学式で、柊、と大声を出したのはやはりあの彼だった。
 日生は人の名前を覚えることが大の苦手だ。それなのに、日生は彼の名前も顔も知っていた。よほど優秀な野球選手か、日生に強いインパクトを与えた人か、どちらかなのだろう。
 柊は、栄人の投げるふりを思い出した。力強いフォームは安定していて、無駄がなく、美しかった。彼の日々の努力、地力を肌で感じるような投球フォームだった。
 柊は料理の手を休め、エプロンをつけたまま二階の自室に向かった。ドアを開け、机の引出しに仕舞った軟球を取った。
 このボールは、彼の何を表しているのか。あんなに大事そうに持っていたものを初対面の、それも背中を押して転ばさせた自分が預かるなんて抵抗があった。けれど、自分と同じ、夢高に憧れと不安を抱いている人が夢高でどうなっていくのか見たいと思った。だから彼の約束に頷いた。
 あの素晴らしい投球フォームを持っている彼ですら、夢高に不安を抱いている。特技無し、の自分と重ね合わせていることに申し訳ないと思いつつも、柊は、大切なものに触れるように軟球をなでた。

「柊の部屋に、そんなものあるなんて意外だな」

 振り向くと、部屋の前に日生が立っていた。開けっ放しのドアに背を預け、こちらを見ていた。

「日生くん、いらっしゃい。いつ来たの?」
「今さっき」
「そう……ねえ日生くん、光利栄人くんてどういう人なの?」

 柊は軟球を引出しに仕舞いながら、日生に訊いた。日生は相変わらず無表情で何を考えているのかよく分からなかった。交際範囲の狭い自分の口から光利栄人と聞き、うちの新入部員と一体どんな接点が? と疑問に思ってもおかしくないと思うのだが、日生は無表情を崩さない。それどころか、まったく関係のないことを言ってきた。

「そんなことより、魚焦げてたぞ。一緒に来たテンさんが何かしてくれてるみたいだけど」
「え! 嘘!」

 そういうことは早く言ってよー! と言い、柊は日生を置いて部屋から飛び出した。


     ◇


 柊の口から栄人の名前を聞いた時、疑問は浮かばなかった。
 そういうことは早く言ってよ。柊がそう残した言葉に、日生はようやく疑問を持った。そういうこととは、魚のことか、テンさんが来ていることか、どっちだろうと。


 見学会の日、たくさんの中学生が夢高野球部を見に来ていた。日が暮れ始め見学者の数も減ってきた時、やけに強い視線を感じた。見ると、そこには光利栄人がいた。県大会優勝に導いたピッチャーであり、全中一回戦で大量失点したピッチャーでもある彼。その隣に柊がいたのを日生はよく覚えている。
 意外すぎる組み合わせに度胆を抜かれたあの日、二人が何故並んでいたのか気になったが、その経緯を特に探ろうとは思わなかった。
 二人の経緯に関心は持たない。ただ、正反対の二人が並ぶことで、これから何がどうなっていくのか、気になった。
 諦めない少年と諦めた少女の組み合わせを、日生はもう一度思い浮かべた。



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