004.pale white lily / 夢路高校の入学式

 野々松(ののまつ)は担任の話しを半分聞き流しながら、栄人との出会いを思い出していた。
 初めて会ったのは寮に入った時だった。二人部屋に荷物を下ろし、ルームメイトはまだ来ていないのか、と思った矢先だった。

「宇条(うじょう)中の、野々松?」

 と、後ろから声をかけられた。それが栄人だった。
 正直、短い人生で一番驚いた。母親の下着が体操着に交じって入っていた時より驚いた。自分のルームメイトがあの、光利栄人とは。
 同じ神奈川県予選に出ていた者なら、栄人の名前は嫌でも耳に入っている。良い意味でも悪い意味でも有名な彼と、これから同じ部屋で寝泊りし、夢高のグラウンドで野球をするのかと。想像もしていなかった目の前の現実についていけず、野々松はしばらく返事が出来なかった。
 回転の利かない頭で考えられたのは、栄人はとっくに寮に着いていて、余った時間ランニングをしていた、ということだった。汗だくの顔を袖で拭いながら部屋に入る栄人は、野々松の目になんとなく自然に映った。
 荷物を置いてすぐ走りに行ったのだろう、栄人の大きな荷物のファスナーは閉じられたままだった。
 彼の頭は常に、野球が優先されている。野々松はそう思った。

「なあ栄人、今更だけど、どうして俺のこと知ってたんだ?」
「本当、今更だな」

 そう言って大きく笑う栄人。担任に気づかれないよう小声で喋った。

「宇条中が一回戦勝ってたら次は鈴浦とやるはずだったろ。だからみんなで試合を観に行ってた。そりゃ二打席連続ホームラン打ってたら、ピッチャーとしては嫌でも覚えとかないと後で痛い目見ると思って」

 ふうん、と野々松は返した。そんな野々松を見て、栄人はまた下を向いた。

「……なあ」
「んー?」
「何でさっきから、必死になってそれ見てんだ?」

 栄人は追っていた目を止め、静かにそれをたたみ、別に、と答えた。頬杖をついて窓の外を見だし、何事もないように目をそらした。
 野々松は、こんなに嘘が下手な奴と会ったことがなかった。これ以上踏み込んでいいのか躊躇してしまうほどだった。
 栄人が見ていたものは正門をくぐって渡されたクラス分けのプリントだった。全学科の新入生の名前がクラス別に書かれており、栄人と野々松も同じ体育科一年五組、それも出席番号前後で名前が載っていた。自分たちのクラスを把握し、教室の場所も分かった。あとはクラスメイトの名前を覚えることくらいしか役に立たないそれを、栄人は必死になって見ていた。

「知り合いでも捜してるのか? だったら協力するぞ」
「……知り合い、かな」

 協力、という言葉に反応したのか、栄人は素直に白状した。

「学科は?」
「…………」
「名前は?」
「…………」

 栄人は目をそらしたまま、野々松の顔を見ようとしない。こいつは一体何を捜しているんだ。

「おい、学科も名前も分からない奴をどうやって捜すんだよ」
「いや、名前は分かってるんだけど、聞き間違いだったかもしれないって不安になってて……顔見れば分かるんだけど」

 栄人はプリントを裏にし、こんなかんじの子、と絵を描くが、彼の画力では何も伝わってこなかった。幼稚園児が母の日に送るような絵を見せられても、野々松の呆れは覆(くつがえ)らない。だが、その絵がわずかに女顔だったのが、野々松を驚かせた。

「捜してる奴って、女なの?」
「そうだよ」

 それがどうかした? と続ける栄人を見て、野々松はなんとなく不自然に感じた。栄人の頭は常に野球が優先されていると思っていたからだ。入寮してすぐ、鞄を開けないままランニングする奴が、今、必死になって女を捜している。

(まあ、栄人だって普通の男だもんな。女に興味ないほうがおかしいか)

 そう思う野々松だったが、やはり釈然としなかった。その時。

「おい、家政科のとこ見てみろよ」

 隣の席の男子生徒が声をかけてきた。野々松は、どうしたんだ、と家政科のページまでめくってみた。

「一年二組、千歳柊(ちとせひいらぎ)だってさ」

 その男子生徒は、この大発見を嬉しげに他の奴にも教えていった。その伝達が徐々に広まっていき教室が少しざわついた頃、担任はやっと生徒のお喋りを注意した。
 それでも野々松は、後ろの席の栄人に話しかける。

「美人姉妹って言われるぐらいだから、この子もやっぱ美人なんだろうな」

 栄人は何も答えず、今日何度目になるか分からないほど、千歳柊の名前をじっと見つめた。


     ◇


 栄人はずっと、柊という苗字の女の子を捜していた。入学式看板を掲げた正門をくぐり、一番に渡されたこのクラス分けプリントを、目を凝らして捜し続けた。特別進学科、普通科、体育科、美術科、音楽科、家政科、工業科、商業科、国際科、看護科と、全学科の新入生の名前を辿っても、柊の苗字を持つ人はいなかった。
 マンモス校の新入生は千を超えている。自分が見落としているだけかもしれない。栄人は一ページ目に戻りもう一度捜した。やはり柊の苗字を持つ人はいなかった。けれど、柊の名前を持つ人はいた。ただ、それは千歳柊だけだった。
 千歳柊と言えば、年商二十兆円以上と噂される日本が誇る大財閥、千歳グループのご令嬢だ。小銭が六種類あることを知らない、一万円札で鼻をかむ、おーほっほっほ、なんて笑う超お嬢様なんじゃないのか。
 栄人のそのイメージと、見学会で会った女の子は正反対そのものだった。彼女が、ここからここまで、色違いも含めて全部買うわ、と言ってドレスを大人買いするなんて、想像出来ない。
 彼女は本当に「柊」と言ったか、自分の聞き間違いだったのか。高飛車な要素が一切ない、彼女の柔らかい笑顔を思い出し、もう一度クラス分けプリントをめくった。もしかして、受験に失敗したんじゃ。最悪のパターンを振り払い、栄人は千歳柊の名前を手でなでた。自分が受験に成功したのだから、頭の良さそうな彼女が失敗するはずない。
 絶対また会える。この夢高にいる限り、絶対また会える。そう信じる栄人は、担任の説明を聞き、クラスメイトたちと一緒に体育館に向かった。
 入学式が行われる体育館。栄人はそこで本当のお嬢様を見ることになる。


 新入生が千を超える夢高の入学式は三部に分けて行われる。体育科はその第二部だった。三部もあるせいか校長の話しも短めで助かった。つまらない流れを、新しいクラスメイトたちは小声で喋り楽しく過ごしている。栄人と野々松もそれに加わり、盛り上がっていた時、ステージに上がった女子生徒がマイクを通して言った。

「特別進学科三年一組、生徒会長の千歳椿(ちとせつばき)です。皆さん、本日は入学おめでとうございます」

 千歳椿、その名前に反応して、栄人は正面のステージを見た。
 何百もの人の前に立っていても、背筋を伸ばして堂々としている、凛としていて、迷いのない澄んだ声、無駄な色が一切混じっていない真っ直ぐな黒髪と、眼鏡の奥にある知的な瞳をもつ彼女が、千歳椿、千歳四姉妹の長女。
 栄人の想像したお嬢様は二流だったのかと思うほど、彼女は落ち着きのある上品さがあり、聡明な色が滲み出ていた。あれが本当のお嬢様なのだと思い知らされるほどの魅力を感じた。栄人の周りには、彼女を見てうっとりしている男子生徒はおろか、女子生徒も数人いた。
 新入生に送る言葉を言い終えて、椿はステージの隅に移動した。隅に置かれた大輪の華。もしかしたらあの人が、柊(仮名)のお姉さん。物腰の柔らかそうなところは似ていると思うが、椿の堂々とした態度と柊のおどおどした態度は似ても似つかない、かもしれない。
 栄人がそんなことを考えていると、校長がまたマイクの前までやって来た。

「それでは新入生代表、家政科一年二組、千歳柊さん。よろしくお願いします」
「は、はい……」

 進行役教員に答えるおどおどした声は、あの日聞いた彼女の声に似ていた。栄人は中腰(ほとんど立った状態)になって新入生代表を見た。小柄な女の子がステージに上がり、校長の前で挨拶している。たどたどしく文を読み上げる彼女を、椿がはらはらした表情で見守っている。
 なんとか読み終えた後、彼女はステージを下りた。あの日より髪が少し伸びただろうか。階段を下りる度に揺れる髪の毛、そこからのぞく彼女の顔は。

「柊!!」

 気づけば、静寂な体育館に自分の声が響いていた。隣の野々松が瞬時に栄人を座らせたが、何だ、誰だ、と、このざわつきは簡単に治まらなかった。
 何考えてんだ馬鹿! と野々松に怒られたが、栄人は両手の拳を握り喜びをかみしめていた。
 あの子は夢路高校に来ていた。自分の心を修復してくれた強い味方は身近にいる。あとは、夢高野球部に自分の力を認めてもらうだけだ。
 そう思い、今後の野球生活に情熱を燃やす栄人だったが、彼はしばらくして頭をかかえることになる。比喩ではなく、本当に頭をかかえる。柊が夢高に来ていたことを嬉しく思うのも束の間、彼女が千歳グループのご令嬢だということは大誤算だ。あの汚い軟球を無理矢理押しつけた田舎の芋男が、これから無事に高校生活を送れるのか。
 喜び、情熱、恐怖が入り混じる、栄人の入学式だった。


     ◇


「何、あの男」
「ひさちゃん、ビデオカメラに声入るよ。でも、ひいちゃんの名前呼んだあの子誰だろうね。体育科みたいだけど」
「あいつは光利栄人だ」
「え? 野球部なの?」
「ああ」
「へー、日生がもう名前覚えてるなんて珍しいね。期待の新人ちゃんてわけ?」
「さあな。十中八九、俺たちの夏には関係ないと思うけど」
「そんなこと言ってぇ〜! 顔までばっちり覚えてるくせにぃ〜!」
「榎姉、声入る……」
「あ、ごめんごめん」
「お前は昔っからうるさいからな」
「何よー!」
「少しは椿を見習え」
「偉そうに!! あんたなんか小学二年生の時……」
「二人とも、声入る……」

 体育館の二階も、それなりに盛り上がっていた。



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