014.sun orange / 一年生の負けじ魂

 柊は夢高の制服に着替え、鞄を持って家を出た。少しだけ暖かい春の風が吹いて、柊の髪を優しく撫でた。太陽の澄んだ光は、目の前の川の水に弾いて世界を明るくしていた。
 今日は清々しい日曜日だ。柊は、川辺に生えているタンポポ、オオバコ、シロツメクサ、クローバーの緑に少しひっかかったが、真っ直ぐ夢高に向かった。
 鞄の中で、軟球が転がっている。


     ◇


 深津が、入学早々、一年生に最大のチャンスを与える理由は三つある。
 一つは、今年の新入部員の力を把握し、即戦力になれそうな者を探すためだ。夢高野球部には毎年才能溢れる一年生が何人か入部する。そういった連中は不思議と、練習だけでなく試合でのプレーも見てみたいと深津に思わせるのだ。
 夏はすぐそこまで来ている。夢高の目標は激戦区の神奈川を制し、甲子園に出場して今度こそ優勝することだ。レギュラーであろうと上級生であろうと一年生であろうと、使えるほうを使う。その一種の非情は、名門校の監督を務めるうえでの宿命でもある。勝ち続けるためには、常に最強のチームでなくはならない。
 常に最強でいること。それは、深津の教育者としての人づくりが重要となってくる。
 二つ目の理由は、真面目にランニングをしない新入部員にあった。退部もせず、ちゅうぶらりんのまま野球部に残っている不真面目な新入部員に、同級生の最初の晴れ舞台を見せることで、野球意識変化のきっかけを与える。
 彼らは今頃気づいているはずだ。真面目にランニングをこなしていた部員だけが集められ、選抜メンバーのテストを受けられた。あの時自分も走っていれば、真面目に取り組んでいれば、自分も選ばれたかもしれないのに。その思いを忘れず、もう後悔しないと心に決め、野球への取り組み方を変えてほしいという深津の無言の願いが、この試合の理由でもある。
 後悔は成長の種でもある。後悔しないと腹をくくった選手は、一年後二年後に化けることは珍しくなく、それは最強夢高への道に自然と繋がってくる。ただ、後悔するのは最初に限る。三年生の終わりに後悔しても遅いし、そうなってほしくない。輝かしい高校生活を後悔しないために考えながら野球することを、深津は一番伝えたかった。
 深津のメッセージと最強のチーム作り、それらを含むこの試合には当然リスクもある。
 レギュラーと一年生選抜メンバーの力差は明白で、試合結果はほとんど決まっている。今年に至っては、天才和城日生が三年生、その背中を見て部活に励んでいた同級生たちの総合力は例年を上回る。藤瀬も一年間厳しい練習に耐え、夢高エースとして更に力をつけた。
 そんな彼らを相手にする一年生たちに、今後の野球人生において大きなトラウマを残しかねない。こてんぱんに叩きのめされた時の戦意喪失感、それを切り替えられない選手が一番危ない。折角の才能を監督自らが潰してしまうことになる。
 幸い、深津が選ぶ一年生たちは負けん気の強い性分ばかりで、レギュラーに大敗したことを前向きに受け止める選手が多かった。けれど、一度見誤ればこの試合は失敗になる。部員全員の人生を背負い込んでいるなどと大それたことは考えていないが、自分が彼らの野球人生に大きな影響を与えていることは事実だ。
 監督として、深津はグラウンドと向かい合う。そして一人の観客として、両チームのベンチに入らず試合を見守る。
 怖いと思う反面、深津はこの試合を毎年実行する。止められない最大の理由は、恐怖に勝る期待。毎年必ず、この試合を財産にする選手がいるからだ。


     ◇


 グラウンドを一望出来る芝生の緑は、多くの観客の影と重なった。小学生から大人まで、ご近所から県外までと層の厚い観客で埋まり、栄人は錯覚してしまいそうだった。

「どこかの球場みたいだ」

 隣にいる野々松は栄人に同調した。栄人もある程度の試合出場経験はあるが、観客の多い試合は全中の一回戦以来だった。けれど今は、あの時とは環境がまるで違う。地元の田舎から応援に駆けつけてくれた人たちは、もうどこにもいない。

「栄人、何怖い顔しとるん?」
「怖い顔なんてしてないよ」

 見返してやる。あいつらもこいつらも全員見返してやる。栄人は芝生に座る観客たちを見渡した。囲っている全員がレギュラーチームの勝利を期待している。グラウンドにより一層近づいている大人たちは、この試合の勝敗を確信しながら、カメラやメモ帳を片手に目当ての人物を追っていた。
 とうの和城日生はベンチに座り、誰とも喋らず、試合が始まるのを静かに待っている。日生の周りには素振りをしている岩本と安、キャッチボールをしている道西と武川、念入りに準備運動をしている袖達、リラックスして談笑している楢山と望月、そして、ボールを弄びながら集中している藤瀬。
 強そうだなあ。一年生選抜メンバーの一人が言った。

「そんなにビビることないじゃろ」
「ほうじゃ、ほうじゃ」
「お前ら、どこからそんな自信が……」

 選抜メンバーの半分は、レギュラーチームを前にしりごみしていた。もう半分は、どこからそんな自信が湧いてくるのか疑問に思うほど堂々としていた。
 中でも、栄人の変貌ぶりには皆が驚いていた。

「ずっと落ち込んでたのに、栄人の奴、急にどうしたんだ」
「知らね」

 チームメイトが自分の影を見て何か言っている。栄人は気にせず、もう一度芝生のほうを見た。あの時程ではないが、この中には確実に、自分を応援してくれる人がいる。

「お前らああ!! 準備はいいかああーー!!」
「おおおおおおおおーー!!」

 太陽の下、日生の声がグラウンドを囲む芝生にまで轟いた。普段物静かな彼を見ているだけに、辺りを巻き込むような張った声は一年生たちを驚かせた。

「今日の相手は誰だああ!! 望月!!」
「中学臭え!! 一年坊主!!」
「奴らに点をやるのか!! 藤瀬!!」
「やらねええ!!」
「勝つのは!!」
「夢高ーー!!」
「行くぞおおーー!!」
「おおおおおおおおーー!!」

 夢高野球部の円陣は、選手たちの心を一つにする最初の作業であり、観客たちを充分に楽しませる最初の催しのようなものだった。そして、一瞬の隙も作らないように気持ちを高め、一年生たちを睨むように立つレギュラーは、選抜メンバーの半数を怖気づかせる恐怖の対象以外何者でもなかった。
 もう半数のメンバーは、レギュラーの円陣が気に入らなかったのか、不機嫌な様子で睨み返していた。

「中学臭いと」
「どう思う?」
「悔しいに決まってんだろ」
「決まりじゃな」
「栄人やってや」
「俺!?」
「おい、そこらで固まっとるお前らもこっち来いや」

 一年生たちはごそごそ動き、慣れないメンバーで円陣の体勢をとった。もたもたしている彼らを見かねて、レギュラーたちの鋭く光った目が和らいだ時、栄人の声は轟いた。

「お前らああ!! 準備はいいかああーー!!」
「おおおおおおおおーー!!」
「相手は誰だああ!! 雅司!!」
「万年!! 準決止まりチーーム!!」
「…………」
「…………」
「……それは、言い過ぎじゃね?」

 広島出身の双子の片割れ、河上雅司(かわかみまさし)の暴言で選抜チームの勢いは止まってしまったが、栄人はすぐに立て直し、日生に負けないくらいの大声でグラウンドの空気を変えた。

「い、行くぞおおーー!!」
「おおおおおおおおーー!!」

 既に整列しているレギュラーと向かい合う一年生たち。袖達、岩本、望月は一際鋭い目で睨んでいた。そして日生は、心なしか笑っているように見えた。



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