016.naples yellow / 先手をとるのは

 キイインと、耳に痛い音が響く。栄人の球が打たれたのだ。打球は空に黒子をつけたように高く上がったが、ライトのグラブに向かって落ちていった。

「まあ、初回はこんなもんだろう」

 記者の一人が呟いた。若くて疲れもまだ出ていない、肌のつやも健康そうな男はカメラを置いてタバコを取り出す。他の記者たちはそれを冷めた目で見ていた。

「初回〇点、凄いじゃないか」
「え? 普通じゃないですか」
「そのへんの試合と一緒にするなよ。片方は全国でもトップクラスチームで、もう片方は先月まで中学生だったんだ。いくら中学で有名だったとしてもレベルの差がありすぎなんだよ」
「毎年行われるこの試合も、初回だけで五点は堅かったからな」

 妙な静けさが記者たちを襲った。反対に、選抜チームは盛り上がっていた。初回〇点の偉業に気づいていないようで、奥で縮こまっている四人以外皆意気込んでいた。


 二回表、選抜チームの攻撃は四番の栄人から。
 藤瀬は得意のカーブを二球連続投げてきた。栄人のスイングスピードは四番に相応しい速さだったが、タイミングが合っていないため二球とも空振りした。ツーストライクと追い込まれた栄人は負けず嫌いの性格が働き、バッターボックスで根拠のない強気を垂れ流していた。
 目の前の天才ピッチャーを倒して、自分があのマウンドに上がろうとしているのだから、ここで凡退するわけにはいかない。その思いでいっぱいの栄人に、レギュラーチーム応援一色の歓声は聞こえなかった。
 藤瀬の鋭いカーブに怯むことなく、栄人は構えた。絶対打ってやる。そう気張っていたが、藤瀬はなかなか三球目を投げてこない。
 先頭打者加間の打席でも思ったが、今日の藤瀬はどこかおかしい。加間は良いバッターだと思う、それでも、いつもの藤瀬なら簡単にヒットは許さないはずだ。

「栄人ー!! 今日の変化球はキレがないみたいじゃけえ打てるでー!! しっかり出えよー!!」
「よせや、雅司」

 大胆不敵なチームメイトは頼もしいが、雅司の問題児ぶりにはらはらさせられ、栄人の集中は少しだけ欠いた。先程の円陣の暴言と言い、先輩相手に野次を飛ばす憎らしいほど快活な態度と言い、こちらが焦ってしまう。
 雅司はベンチから身を乗り出し、まだ野次を飛ばしている。それを咎める兄の智志(さとし)に、あいつを黙らせてくれと栄人はめくばせする。一卵性双生児なだけあり、二人は外見だけでは見分けがつかない。けれど中身はまるで違うため、慣れていない人の目には奇怪な二人が映るだろう。
 例えば、藤瀬とか。雅司の野次が聞こえたのか、投げる体勢に入る前、藤瀬は選抜チームのベンチをちらりと見た。同じピッチャーだから分かるのだが、集中してマウンドに立っている時、この世の雑音が耳に入っている自覚はなくなるものだ。もしくは、自分にとって都合の良い音だけ聞こえてくる。雅司の野次が聞こえたということは、藤瀬は今、集中出来ていないのか。スロースターターという印象はないが、彼が集中していないとなると、チャンスは今しかないだろう。
 自然と、栄人の頭から余計な考えが抜けた。打つことだけに神経を使う、その準備は万端だ。
 三球目、藤瀬が投げた。

(三球ともカーブ!)

 曲がって落ちてくる球に合わせて、栄人はバットを思い切り振った。手応えを感じ、打球を確認して走った。高すぎず低すぎずの絶妙さで、打球はサード岩本の上を越え、後方フェンスまで転がっていった。レフト望月が素早く拾い上げセカンドに送球したが、栄人は既にベースについていた。
 藤瀬の得意球をツーベースヒットにした。栄人のヒットは選抜チームの良い流れを作りつつあり、続く五番打者野々松がそれを完全に掴むように、藤瀬の投げた四球目を打ちつけた。選抜チームは無死一三塁と、早くも大チャンスに直面した。
 キャッチャーの日生がマウンドの藤瀬に近づき、何か話している。レギュラーチームとしては、ここは絶対に抑えておきたいところだ。レギュラーチームが一年生に先制点を許すなんて、これほどのプライド崩壊理由もないだろう。
 栄人はマウンドの藤瀬をちらりと見る。日生と話していても、藤瀬は下を向いて目を合わせようとしていない。そんな藤瀬の尻を、日生はミットで叩いて気合を注入している。
 それを見て栄人は確信した。今日の藤瀬は不調だと。
 栄人の打った三球目のカーブは、一球目二球目と比べて明らかにキレがなかった。野々松の打席でも、加間の打席と似た違和感があった。藤瀬の変化球はもっと鋭いはずなのに、今日はそれがない。マウンドで、俯かないよう不自然に胸を張っている藤瀬は、まるで別人のようだった。

「任せんさい」
「智志! 力むなよ!」
「分かっとる!」

 人柄の良さが滲み出るような笑顔で、智志は答えた。反対に栄人は、獣のようにホームベースを狙っていた。

(先制点、取ってやる)

 先制点を取ればレギュラーチームにダメージを与えられ、選抜チームに勢いがつく。それに、ピッチャーの精神的楽さが違ってくる。藤瀬の不調を長引かせれば、この試合、チャンスは何度でも生まれてくるだろう。

(絶対勝つんだ!)

 日生とバッテリーを組む、そのために夢高に来たのだから。
 一球目二球目と、智志はバットを振って球に当てた。ヒットは生まれず、二本ともファウル。三球目もファウルにし、粘りを見せた。
 先制するチャンスを託した四球目、智志の打球は大きな弧を描いて飛んだ。

「犠牲フライだ!!」

 栄人はすかさずサードベースにつく。外野手が捕球した瞬間、一目散にホームベースを踏むつもりだった。
 高く上がった球はライト安のグラブに納まった。

「行けー!!」

 チームメイトの合図で栄人は走った。足には自信がある。加間ほどではないが、自分もそれなりに俊足と言われている。
 ホームベースまでの距離を急速に縮めていく栄人だが、安の鋭い送球が目に入った。それはプロの試合で見るレーザービームのようで、高校球児外野手の球速とは思えない速さだった。
 それでも、栄人は怯まずに突進する。自分の足か、安の強肩か。

(勝つのは俺だ!)

 日生の下にある、不規則な五角形の白。それ目掛けて、栄人は両手を伸ばし飛び込んだ。同時に、日生のミットに球が納まる豪快な音がした。
 栄人と日生の体が強くぶつかり合う。それに負けず栄人は突っ込んでいったが、手の先で感じたのは柔らかい土だけだった。

「アウトオォ!!」

 栄人の手はベースに届かなかった。タッチアップは失敗。先制点のチャンスを逃してしまった。

「……くそっ!」

 そう吐き捨て、栄人はベンチに戻っていく。背中の向こうで、藤瀬が安に礼を言っているのが聞こえた。

「一年なんかに、先に点はやらせないよ」

 大したことをしたわけではないと言わんばかりに、安はそう言い残してポジションに戻っていった。
 安の強肩と正確なコントロールがなければ、選抜チームの先制点は確実だった。それを抑えただけでなく、レギュラーチームの悪い流れを一気に拭い取るファインプレーを、安はしたのだ。
 藤瀬は確かに不調で、選抜チームにとってはこの上ないラッキーだが、不調のエースを支える八人がいることを忘れてはいけなかった。藤瀬のポジションと目先のチャンス、それらに盲目的に囚われていた栄人は、興奮をさまして冷静になる。
 敵は夢高のレギュラーを勝ち取った九人だ。そう思い、更に気を引き締める栄人に、セカンド道西とショート武川の会話が聞こえるはずなかった。

「平凡なライトフライにされたこと、悔しがってるみたいだね」
「ああなると安は厄介だからなあ」


     ◇


 先制点のチャンスを逃した選抜チームは勢いをなくし、七番打者雅司はファーストフライに散って二回裏に入った。それと同時に、記者たちは一斉にカメラを準備した。他の記者より自分がベストポジションを確保するための押し合い合戦が始まった。今日、この男の活躍を取り上げるために夢高までやって来たのだから。
 観客のほうは、歓声一色だった。

「和城! 和城! 和城!」
「和城! 和城! 和城!」

 観客の声援に包まれるグラウンド。袖達や楢山、安の時と比べ物にならない大音量は、選抜チームへの四面楚歌のようだった。
 彼らが呼ぶのは日本一と言われる高校球児、和城日生。そんな彼と戦っている事実に気圧されそうな選抜メンバーが数人いた。

「あの球、結構伸びてくるよ」
「ああ、見てた」

 野々松はちらりと、レギュラーチームのベンチを見た。バッターボックスに向かう日生を引き留めたのは安だった。安にいつもの笑顔はなかった。

「ごめんね、日生」
「……何が?」
「分かってるくせに」

 安が日生に何か言っている。日生も何か言っている。その二人を申し訳なさそうに、袖達と楢山が見ている。
 野々松は自分のポジションにつき、レギュラーチームの状況を考えながらベンチの空気を読み取ってみる。
 袖達も楢山も安も全国で名高い野球部の上位打線。それが無安打という結果の一回裏。二回表、エースの不調でヒヤリとする場面も生まれた。これ以上一年生相手に無様なプレーは出来ない。
 二回裏、最初のバッターは主将であり夢高の絶対的主柱、日生。上位打線を抑えた剛速球を打たなければならないこの状況で、和城コールを浴び、早く打ってくれという観客たちの飢えも彼は背負っている。圧し掛かっているプレッシャーは相当なものだろう。
 自分が日生の立場でなくて本当に良かった。野々松は、バッターボックスに入り、バットを強く握り直して構える日生を見た。
 何てことのない仕草だ。ただ日生の、打ってやるという凄まじい気迫を感じた。かつてこんなバッターの後ろで構えたことがあっただろうか。野々松は自分の短い野球人生を振り返ってみても、それに当たる人物を思い出せなかった。
 野々松は栄人を見た。栄人は顔を強張らせて、心を奮わせていた。勝負してみたい。栄人の声が聞こえてくるようだった。自分の球がこの男に通用するのか試してみたいのだろう。
 後ろで構えていても冷や汗が出そうなのに、栄人は正面で向き合ってわくわくしている。野々松はここに来て初めて笑い、サインを出した。栄人は頷き、思い切り投げた。

(……速い!)

 それは上位打線を抑えたのとは違う、凄まじいスピードだった。
 野々松はミットを構えた。そして自信過剰になった。

(ひょっとしたら、勝てるんじゃね?)

 今まで栄人の投球練習に付き合ってきたから分かるのだ。彼の最高の球を万全の体勢で捕る気持ちがはやり、野々松は口元のにやけを抑えられなかった。
 耳障りな金属音と、大きく、高く飛んでいく打球で我に返った。
 日生の打った球はセンター加間、その後ろのフェンスを大きく越えて木の枝葉に隠れていった。勢いを吸収した反動か、木の葉が何枚も、ゆらゆらと地面に落ちていった。

「初球いきなり場外ホームランかよー!」
「やっぱり和城はやってくれたな!」
「マスコミに貢献してくれるぜ。ここまで来た甲斐があった!」

 軽く走りながらベースを踏んでいく日生の姿を記者たちが撮る。欲しかったネタをそのまま提供してしまった。カメラの数多いシャッター音、観客たちの声援すべてが鬱陶しかった。
 あれは栄人の最高の球だった。フォームも、足の踏み込む位置も、タイミングも、球を投げる瞬間も、全てが最高だった。日生が打たなければ今までで一番気持ちのいいミットの音が聞けたはずだった。
 野々松はぼんやりそう思いながら、栄人が触れなかったホームベースを悠々と踏む日生を、呆然と見るしか出来なかった。



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